Shiny Academy

AI×デザイン実践コース

~第6話 3つの言語で、同じ気持ちを伝える~

前回のあらすじ

ユニバーサルデザイン(UD)の考え方を学び、文字サイズを14ポイント以上に引き上げ、行送り(文字サイズの1.5倍以上)、コントラスト(明るい色と暗い色の差)、十分な余白を整えて「誰にでも読める」小冊子に仕上げた。北村が「何ポイントにすればいいんだ」と具体的な単位で質問し、可読性と情報量のトレードオフ(どちらかを取ればもう片方が犠牲になる関係)に直面しても「読みやすさのほうが大事だ」と自ら判断を下した。

「英語版も、中国語版も作れないか」

北村が校正刷りを手に身を乗り出し、英語版・中国語版の制作を提案している

夏のせとうちマーレブル事務所。UD対応が完了した日本語版の小冊子を会議テーブルの上に広げ、北村と宮本と神谷で最終確認をしていた。14ポイントの文字と1.5倍の行送りが、暖色系のページに落ち着きを与えている。文字サイズ、行間、コントラスト、余白。読みやすさを決めるこの4つを丁寧に整えたこの冊子は、お年寄りにも、片手でベビーカーを押すお母さんにも、誰にでも読めるものになっている。

北村裕の表情アイコン
北村
いやあ、見違えたね。文字も大きくて読みやすいし、色も温かくていい。これなら、お年寄りにも胸を張って渡せるよ
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
ありがとうございます。印刷に出す前に、もう一度だけ確認しておきたかったんです
北村裕の表情アイコン
北村
うん、申し分ない出来だ。ところでね、神谷くん。最近、高松空港に安い運賃の飛行機が増えたのを知ってるかい。台湾や韓国からの観光客を、屋島でもよく見かけるようになったんですよ
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
たしかに、やしまーるの展望スペースでも英語や中国語を話している方を見かけました
北村裕の表情アイコン
北村
この小冊子、英語版と中国語版も作れないかね。せっかくいいものができたのに、外国の方が手に取っても読めないんじゃもったいないだろう

日本語版の完成に安堵したのも束の間、新たな課題が投げ込まれた。英語版と中国語版の制作。翻訳を外注すれば費用と時間がかかる。NPOの限られた予算では簡単に決められる話ではない。しかし北村の言葉には、この小冊子を「もっと多くの人に届けたい」という素直な願いがこもっていた。

宮本彩の表情アイコン
宮本
翻訳を外部にお願いすると、1言語あたり数週間はかかりますし、費用もかなりかかります
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
実は、AI翻訳ツールを使えば日本語の原稿から英語や中国語の下書きをすぐに作れるんです。まずはそれで試してみませんか
北村裕の表情アイコン
北村
ほう、あのAIの機械で翻訳もできるのかい

AI翻訳の速さと、伝わらない壁

神谷がAI翻訳の出力を見せ、北村と宮本が画面を覗き込んでいる。西園寺がオンラインで参加

神谷がAI翻訳ツールに日本語版の原稿を入力し、英語と中国語(簡体字)の下書きを生成した。ものの数分で2言語分の翻訳が画面に並んだ。翻訳会社への外注は、分量や納期によって見積もりから納品までの期間も費用も変わる。その下書きにあたる部分が、いまは数分で手元に並んでいた。もちろん品質が同じわけではないが、着手までの速さは比べものにならなかった。

神谷悠馬の表情アイコン
神谷
中国語は簡体字と繁体字で別物なんです。台湾の方には繁体字が読まれます。ただ、今回チェックをお願いできるのが簡体字を使う方なので、まずは英語と中国語の簡体字版で出します。繁体字版と韓国語版は、読める方が見つかった段階で次の版に足しましょう
北村裕の表情アイコン
北村
こんなに速くできるのか。翻訳というのはもっと時間のかかるものだと思っていたよ
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
下書きとしては十分なレベルです。ただ、このまま使えるかどうかは確認が必要です

もう1台のノートPCでオンライン会議を開き、西園寺に英語版の翻訳を共有した。西園寺が画面越しに翻訳文を丁寧に読み始めた。読み合わせを始めると、問題が次々に見つかった。

西園寺遥の表情アイコン
西園寺
ここ、「瀬戸内」が "Setouchi" とそのままローマ字で出ているわね。海外の方にとっては、これが海なのか地域なのかすらわからないでしょう
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
たしかに……。「瀬戸内海」を知らない人にとっては、地名がローマ字になっただけですね
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
それから「お遍路」が "pilgrimage" と訳されているの。英語として間違いではないけれど、四国を巡る独特な仏教巡礼の文化までは、この一語では届いていない気がするわ
宮本彩の表情アイコン
宮本
「うどん踏み体験」は "udon stepping experience" になっています。直訳としては合っていますけど……なぜ足で踏むのか、それが楽しいのかが、これだけだと伝わらないですよね
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
どれも言葉としては間違っていないのに、読んでも何のことかわからない……

直訳としては正しい。英語の文法も語彙も間違っていない。しかし読み手の文化的な背景を考えると、何も伝わっていない。言葉を別の言語に置き換えただけでは、その奥にある意味や体験は届かなかった。

西園寺遥の表情アイコン
西園寺
言葉をそのまま別の言語に置き換えることを「翻訳」と呼びますね。でも、それだけでは足りないでしょう。翻訳も含めて、読み手の文化的な背景や現地の習慣に合わせてコンテンツ全体を作り替えること——これをローカライゼーションと呼びます。翻訳はその一部の工程で、そこで止まらないことが大事ですね
北村裕の表情アイコン
北村
この日本語とこの英語、同じことを言っているのかね……僕には英語は読めんが、何か大事なものが抜けている気がする

ネイティブチェック──文化の橋渡し

日本語原稿→AI翻訳(0→1)→ネイティブチェック(1→10)→多言語版完成のワークフロー図

AI翻訳の下書きは速い。しかしそのまま使えば「翻訳はされたけど伝わらない」小冊子になる。西園寺が、その溝を埋める方法を示した。

西園寺遥の表情アイコン
西園寺
たとえて言うなら、AIは8割を速くしてくれます。でも残りの2割——文化の橋渡し——は、人がつなぐ必要がありますね。その2割がないと、翻訳はされたけど伝わらない冊子になってしまうでしょう
宮本彩の表情アイコン
宮本
あの……私の大学時代の友人に、香川に住んでいるアメリカ人の留学生がいるんです。英語のネイティブチェックをお願いできないか聞いてみます
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
ネイティブチェック——英語を母語とする方に読んでもらって、自然さや文化的な違和感を確認してもらう作業ですね
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
ええ、それよ。宮本さん、心強いお話ね。AIにはまだ難しい「文化の目」を、ネイティブの方に担っていただきましょう

宮本がその場でスマートフォンを取り出し、友人にメッセージを送った。翌日にはフィードバック(具体的な修正のお願い)が返ってきた。AI翻訳では気づけなかった文化的な指摘が、箇条書きでびっしりと並んでいた。

「瀬戸内」「うどん踏み体験」「ぜひ訪れたい」のAI翻訳の直訳とネイティブチェック後の訳を比較した表

「"must-visit" は押しつけがましい印象がある。"worth a visit" のほうが自然だ」「写真のキャプションが英語だと意味が逆になっている」「"stepping" だけでは、なぜ足で踏むのかわからない。"kneading the dough with your feet to music" のように体験の楽しさを含めたほうがいい」直訳では見えなかった文化の隙間を、ネイティブの目が的確に指摘した。

北村裕の表情アイコン
北村
同じ英語でも、こんなに違うものなのか。言葉を変えただけで、読む人の気持ちがまるで違うんだな
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
はい。北村さんが長くお客様を迎えてこられた感覚と、きっと同じですね。言葉を置き換えるだけでは、読む人の心までは動きません。だからこそのローカライゼーションで、読む人の文化に合わせて意味を届けます。その橋渡しだけは、AIにはまだ難しいところでしょう

「伝わらない」が悔しい

ネイティブチェックの結果を反映する作業に入った夕方、神谷はふと、画面に表示された "udon stepping experience" という訳語に目を止めた。

あの工房で見た、踏む足のリズム。小麦粉の匂い。藤原さんがかけた音楽に合わせて、笑い声があがった瞬間。あの空気を知っている自分にとって、"stepping" という一語は何も伝えていなかった。

神谷悠馬の表情アイコン
神谷
……"stepping" って、言葉としては合っているんです。でも、あの工房で踏んでいた人の足元も、粉の匂いも、音楽がかかった瞬間に笑い声が上がったことも、何も入っていない。それが悔しいんです
北村裕の表情アイコン
北村
神谷くん、それがわかるのは、あそこに実際に行ったからだよ。あの足の感触を知っているから、この訳じゃ足りないとわかるんだ

北村の言葉は静かだったが、核心を突いていた。「伝わらない」と気づけるのは、現場を知っている人だけだ。一次情報——自分の足で歩き、自分の身体で体験した記憶が、翻訳の品質を判断する基準になっていた。どれだけ正確な翻訳でも、体験の実感を知らない人には「何か足りない」と気づくことすらできない。

多言語対応のワークフローを整える

「伝えたい」という気持ちは大事だが、感情だけでは仕事は前に進まない。感情を行動に変えるためには仕組みが必要だ。西園寺がワークフローを整理した。

西園寺遥の表情アイコン
西園寺
今回のプロセスを整理しましょう。まず日本語の原稿をAI翻訳で英語・中国語に変換して叩き台を作る。次にネイティブチェックで文化的な違和感を修正する。最後に修正を反映して多言語版を仕上げる。この3ステップです
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
AIで叩き台を速く作り、人間が仕上げる。リファレンスを渡して叩き台を作らせたときと同じワークフローですね
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
ええ、そこが一本につながったわね。翻訳でもデザインでも、型は同じなの。AIが0から1を速く作り、人間が1を10に仕上げる——ここは何を作るときも変わらないわ

北村が腕を組み、しばらく考えてから、静かに頷いた。

北村裕の表情アイコン
北村
日本語版を作るときも、あの機械に叩き台を作ってもらって、僕たちが「ここはこうしたい」と直していったものな。翻訳でもやることは同じなんだな
宮本彩の表情アイコン
宮本
中国語版は、大学のゼミの先輩に中国人の方がいるので、ネイティブチェックをお願いしてみます

日本語・英語・中国語の3つの言語で「同じ気持ち」を伝える。そのためには、言葉を置き換えるだけでは足りない。それぞれの言語の向こう側にいる読者の文化を想像し、文化の橋を渡す人が必要だった。AIが速さを、人間が深さを担う。このワークフローが翻訳にも、デザインにも、これから先のあらゆる制作にも通じることを、3人は少しずつ実感し始めていた。


📌 覚えるポイント

  • AI翻訳は下書きを数分で作れるが、文化的なニュアンス(微妙な意味合いの違い)や文脈までは反映されない。速さはAIに、仕上げは人に——最初からここを分けて設計する
  • 中国語は簡体字(中国本土・シンガポール)と繁体字(台湾・香港)で別に扱う。来訪者の内訳と、チェックを頼める人の両方から字体を決める
  • 言葉を別の言語に置き換える「翻訳」は、読み手の文化的背景に合わせて中身そのものを作り替えるローカライゼーションの一工程でしかない。翻訳で止めず、文化に合わせて調整するところまでを一続きの仕事として設計する
  • AI翻訳の出力は、その言語を母語とする人に確認してもらってはじめて出せる状態になる。文化的な違和感や誤解を拾う「文化の目」は、まだ人が担うところ
  • 観光の体験を自分の身体で知っているから、直訳の不十分さに気づける。一次情報は、翻訳の品質を判断するときの基準にもなる
  • AI翻訳で叩き台を速く作り(0→1)、ネイティブチェックで人が仕上げる(1→10)。デザインでも翻訳でも、この分担の形は変わらない
  • 言葉の意味が正しくても、読み手がその文化を共有していなければ何も伝わらない。「間違っていないのに伝わらない」ときは、文化的な文脈を添えるところから直す

📖 覚える用語

ローカライゼーション(localization)
翻訳だけでなく、文化的背景や現地の慣習に合わせてコンテンツを適応させること。言葉を置き換える「翻訳」とは別の工程
📝 神谷の北村さんへの報告メモ
AI翻訳による多言語版の叩き台生成
AI翻訳ツールで英語版・中国語(簡体字)版の下書きを数分で生成。外注と比較して大幅なコスト・時間の削減が見込める。ただし文化的ニュアンスの確認が必須であり、叩き台としての利用に限定する方針。
ネイティブチェック体制の構築
宮本さんの大学時代の人脈を活用し、英語はアメリカ人の留学生、中国語は大学の先輩にネイティブチェックを依頼する体制を構築。NPOの予算に合った現実的な方法で品質を担保する。
ローカライゼーションの意識共有
翻訳とローカライゼーションの違いをチーム全体で共有した。北村さんも「英語は読めないが、大事なものが抜けている気がする」と直感的に品質を判断しており、現場経験に基づく品質基準がチーム内に根づきつつある。

まとめ

AI翻訳は下書きを速くしてくれる。しかし最後に残る文化の橋渡しは人にしかできない。現場を自分の足で歩き、体験を自分の身体で知った人だけが、「伝わっていない」と気づける。その気づきが、翻訳の品質を決める。