Shiny Academy

観光マーケティング実践コース

~第2話 みんなに届く言葉は、誰にも届かない~

前回のあらすじ

宮本と高松の街を歩いた神谷は、スーパーと観光の根本的な違いに気づいた。「お店はお客様が来てくれる。観光は知ってもらうところから始まる」西園寺が導入編で学んだ5ステージのファネル(お客さんが絞り込まれていく流れ)を観光に読み替え、認知のハードルが桁違いに高いことを整理した。北村は「うちは『知る』のところで止まっとる」と静かに自覚した。

みんなに来てほしい

せとうちマーレブル事務所で、北村が観光パンフレットを広げながら宮本と神谷に香川の魅力を熱く語っている

翌朝のせとうちマーレブル事務所。前日の街歩きで確認した「認知のハードルが桁違いに高い」という課題を受けて、ターゲット(届けたい相手)設計の打ち合わせが始まった。会議テーブルの上に、北村が観光パンフレットや地図を広げている。ノートPCの画面には、西園寺がオンラインで参加していた。

北村裕の表情アイコン
北村
香川にはいいところがたくさんあるんです。屋島の夕日、栗林公園の庭園、瀬戸内の島々——若い人にも年配の方にも、海外の方にも。みんなに来てほしいんですよ

北村はパンフレットを一枚一枚指差しながら語った。島の写真、うどん店の紹介、瀬戸内の夕日。どの場所にも思い入れがあり、どの魅力も切り離せない。30年以上この土地を見てきた人の目は、真剣そのものだった。

北村裕の表情アイコン
北村
年配のお客さんだって大事なんだ。長年来てくださっている方がいる。その人たちを外すなんてことは、したくないんです
北村裕の表情アイコン
北村
去年の秋にも、80歳のご夫婦が『10年ぶりに来ました』って。そのときの嬉しそうな顔——あの方たちを見捨てるなんて、できませんよ

北村の声には、30年分の地域への愛着がにじんでいた。「外す」のではなく「全員に届けたい」。それは誰かを切り捨てることへの恐れであり、すべての人に届けたいという温かさから来る願いだった。この土地を愛してきた人だからこその抵抗だった。

たった一人を決めましょう

北村の熱い語りを、ノートPCの画面越しに西園寺が静かに聞いていた。北村が話し終わるまで一言も口を挟まなかった。すべてを受け止めたうえで、穏やかに切り込んだ。

西園寺遥の表情アイコン
西園寺
北村さん、お気持ちはよくわかります。でも『みんな』に届くメッセージは、実は誰にも届かないんです。まず『たった一人』を決めましょう。届けたい相手を、具体的な一人の人物像として描くこと——これをペルソナと呼びます

北村が身を乗り出した。テーブルの上のパンフレットを手で押さえるようにして、声に力がこもった。

北村裕の表情アイコン
北村
たった一人? ちょっと待ってください。一人に絞ったら、それ以外のお客さんを全部逃してしまうんじゃないですか
北村裕の表情アイコン
北村
さっきの80歳のご夫婦もそうです。一人旅の若い方も来てくれるし、海外からの問い合わせもある。一人に絞るということは、その人たち全員に『あなたは対象外です』と言うことになりませんか
北村裕の表情アイコン
北村
うちは大企業じゃないんです。年間の活動予算だって限られている。来てくれるお客さん一人ひとりが貴重なんですよ。一人も逃したくないんです

北村の目は真剣だった。これは理論への反発ではない。長年、一人ひとりの来訪者を大切にしてきた人の、切実な恐怖だった。西園寺はうなずいて、少し間を置いてから答えた。

西園寺遥の表情アイコン
西園寺
北村さん、そのご心配はもっともです。でも、届け先を決めることと、ほかのお客様をお断りすることは、別のことなんです。ここは、切り分けて考えてみませんか
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
それに、不思議なものでしてね。絞るほど、その外側にも届くようになることがあるんですよ
北村裕の表情アイコン
北村
絞るほど広がる……そんなことがあるんですか
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
ええ、あるんですよ。理由はシンプルでしてね。『みんなに向けた』メッセージは、どうしても当たり障りのないものになってしまうでしょう。でも、たった一人のために本気で作ったものには、個性と具体性が生まれます。その具体性が、同じことで迷っている方の心にも届くんです
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
こうして、誰に届けるかを先に選ぶ段階を『ターゲティング』と呼びます。私たちが考えた言い方ではなくて、昔からある基本の手順ですね
北村裕の表情アイコン
北村
ターゲティング……横文字は苦手ですが、要は、届け先を先に決める、ということですな
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
そのとおりです。観光庁が、地域の観光の舵取り役——DMOと呼ばれる法人ですね——向けに出している手引きにも、地域の好みや勘ではなく、旅行者のデータや聞き取りをもとに狙う層を絞り込みなさい、と書かれています
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
ただ、同じ手引きは釘も刺していましてね。ここで忘れられがちなのが市場の規模だ、と。狙う層そのものを小さくしすぎると、その方たちを呼べても、地域全体で見た人数が足りない、というわけです
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
ここは分けて考えてください。狙う層をどれくらいの広さにするかと、その層をどれだけ具体的に思い描くかは、別の話なんです
北村裕の表情アイコン
北村
……広さと、思い描き方。では、これから決めるという『たった一人』は、どちらの話なんです
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
思い描き方のほうです。お客様を一人にすることではありません。その層を代表する一人を、はっきり思い描くということです
北村裕の表情アイコン
北村
……代表する一人、か。しかし、狙いを決めたら、知らせる先も狭めることになるのでは
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
いいえ、そこは別です。絞るのは『誰に向けて作るか』であって、『何人に知っていただくか』ではありません。昨日確認した、認知のハードルが高いという課題は、絞っても変わらないんですよ
ターゲティング比較図。みんな向けの汎用メッセージは情報がぼやける一方、林田家の旅行条件に合わせた具体的な提案は、似た条件の家族にも共感を広げる

西園寺はさらに、北村にわかりやすい例えを出した。

西園寺遥の表情アイコン
西園寺
北村さん、占い師を想像してみてください。『最近お悩みがありますね』と言われても、『まあ、そうかな』で終わるでしょう?
北村裕の表情アイコン
北村
まあ、誰だって何かしら悩みはありますからね
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
そうですよね。でも『先月、大切にしているものの将来について迷われましたね』と言われたら——心当たりのある人はドキッとするでしょう? 具体的に語れば語るほど、共通点を持つ多くの人の心に深く届きます。『みんなに届く言葉』は結局、占い師の『最近お悩みが』と同じで、誰の心にも刺さらないんですよ
北村裕の表情アイコン
北村
……言いたいことはわかります。ですが、私はこの地域を30年以上見てきました。いろんな方が来てくれて、そのたびに全力で対応してきた。理屈は理屈として、一つの家族像に決め打ちするのは、現場の感覚からするとどうにも窮屈に感じるんですよ

そのとき、神谷が静かに口を開いた。

神谷悠馬の表情アイコン
神谷
北村さん、僕もまるやまマートで全く同じ壁にぶつかりました
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
ペルソナを設定する前は、POPも棚の配置も『すべてのお客様に向けて』作っていたんです。でも、それだとどのPOPも同じような無難な言葉になってしまって——お客様アンケートでは『特に印象に残る売り場がない』という回答が一番多かった
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
でも、藤井明日香さんという一人の常連のお客様をペルソナに設定した途端、全部が変わったんです。『明日香さんなら、この野菜の隣に何があったら便利だろう』と考えると、棚の並びが具体的になった。POPの言葉も『新鮮です!』から『今夜の味噌汁に、採れたてのなめこはいかがですか』になった
北村裕の表情アイコン
北村
……それで、ほかのお客さんは離れなかったんですか
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
逆です。藤井さんだけじゃなく、40代・50代のお客様の満足度が全体的に上がったんです。一人のために作った具体的な売り場が、似たニーズを持つ多くの方にも響いた。絞るほど、その外側にも届くことがある——西園寺さんがおっしゃったとおりのことを、僕は現場で体験しました
北村裕の表情アイコン
北村
……なるほど。ですが、もしその一人が違っていたら、どうなるんでしょうか。うちの限られた予算を全部そこに注ぎ込んで、的外れだったら取り返しがつかないんですよ
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
そのリスクについては、このあとお話ししますね。でもその前に、押さえておきたいことがあります。ペルソナが決まると、チーム全員の判断基準が揃うんですよ。今の状態だと、北村さんが想像する『お客さん』と宮本さんが想像する『お客さん』は、たぶん違う人でしょう?
宮本彩の表情アイコン
宮本
……確かに。私が電話で話している方と、北村さんがイベントで会っている方は、全然違うタイプの方ですよね。同じ『お客さん』でも、私たちの頭の中には別々の人がいた
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
宮本さん、そこね。判断基準がバラバラだと、作るものも発信する言葉もバラバラになってしまうわ。一人のペルソナが決まれば、『この人ならどう思うか』という共通の物差しで、チーム全員が同じ方向を向けるようになるのよ

北村は腕を組んで、天井を見上げた。長い沈黙があった。

北村裕の表情アイコン
北村
……理屈はわかりました。絞ることで逆に広がる。チームの判断基準が揃う。頭では理解できます。ですが正直なところ、この手で『この人だけ』と選ぶのは、まだ怖いんですよ
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
その怖さは、大事にしていただきたいものです、北村さん。軽々しく選ぶものではありませんから。だからこそ、ペルソナは勘で選ぶのではなく、検証して選ぶんです

ペルソナは検証して選ぶ

せとうちマーレブル事務所で、ホワイトボードの2つのファネル図を前に北村が腕を組んで考え込み、神谷と宮本がその反応をうかがっている

西園寺はノートPCの画面越しに指を立てた。

西園寺遥の表情アイコン
西園寺
では、ペルソナを検証するプロセスを一緒に確認していきましょう。3つのステップがあります
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
まず『現場の声から仮説を立てる』。北村さんや宮本さんが日々受けていらっしゃる電話やメール、対面でのやりとり——そうした自分たちが直接受け取ったお客様の声から、人物像の仮説を作ります
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
次に『複数の情報源で裏づけを取る』。統計や調査など、仮説とは別の情報源と突き合わせて、その人が一人の特例ではないことを確かめます
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
最後に『チームの現場感覚と照らし合わせる』。数字だけではなく、みなさんが日々の活動で感じていることと合っているかを確認します。この三つが重なったときに、初めて『この人だ』と根拠を持って言えるんですよ
ペルソナ検証の3ステップ。現場の声から仮説を立て、外部データで裏づけ、チームの現場感覚と照らす。3つの根拠を合わせ、一件の思いつきや数字、勘だけで決めない
北村裕の表情アイコン
北村
……つまり、勘で決めるのではなく、段階を踏んで確かめるということですね
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
まるやまマートでもそうでした。藤井明日香さんをペルソナに選んだのは、レジでよく話してくださる常連さんだったから——つまり現場の声が出発点で、そのあと購買データで裏づけを取ったんです
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
ええ、まさにその順番ですね。では北村さん、この3つのステップで検証できる手がかりが、マーレブルにはあるでしょうか。何か現場で直接受け取った記録——お客様の声は残っていますか

📌 覚えるポイント

  • 「みんな」に届くメッセージは誰にも届かない。誰に届けるかを先に選ぶ段階を「ターゲティング」と呼び、届け先を決めることは他のお客様の切り捨てではない。一人に向けて具体的に作った言葉は、似た境遇の人にも届く
  • 「狙う層をどれくらいの広さにするか」と「その層をどれだけ具体的に思い描くか」は別の話。ペルソナの「たった一人」は後者で、お客様を一人にすることではなく、層を代表する一人を描くこと。層そのものを小さくしすぎると、その層を呼べても人数が足りない(観光庁のガイドブックが「市場規模」として注意している点)。また絞るのは「誰に向けて作るか」であって「何人に知ってもらうか」ではない
  • ペルソナが決まるとチーム全員が「この人ならどう思うか」という共通の判断軸を持てる。ペルソナなしでは各メンバーが異なるお客様像を想像し、施策がバラバラになる
  • ペルソナは勘で選ぶものではなく検証して選ぶ。①現場の声から仮説を立てる → ②複数の情報源で裏づけを取る → ③チームの現場感覚と照らし合わせる。三つが重なったとき、根拠を持って「この人だ」と言える

📖 覚える用語

ペルソナ
届けたい相手を、年齢・家族構成・行動・不安まで含めた具体的な一人の人物像として描いたもの。チーム全員が同じ人物を思い浮かべられるようにするための道具。
ターゲティング
市場を切り分けたうえで、誰に向けて届けるかを先に選ぶ段階。地域の思い入れや勘ではなく、旅行者のデータや聞き取りをもとに絞り込む。
📝 神谷の北村さんへの報告メモ
今日決めたこと
届け先を先に決めてから作る、という進め方に北村さんの同意を得た。マーケティングでは「ターゲティング」と呼ぶ段階。誰にするかはこちらで決めず、次回、現場の記録をもとに一緒に選ぶ。
北村さんの懸念への整理
「一人に絞ると他のお客様を逃すのでは」という懸念について、話を二つに分けて確認した。狙う層の広さは絞りすぎない(観光庁の手引きも市場規模への注意を挙げている)。一方、その層を代表する一人はできるだけ具体的に描く。知ってもらう努力を減らす話ではない、という点も添えた。
次にやること
ペルソナは勘で決めず、①現場の声から仮説を立てる → ②別の情報源で裏づけを取る → ③チームの実感と照らし合わせる、の順で検証する。まず、これまでに受けた問い合わせの記録が手元にどれだけ残っているかを、宮本さんと洗い出す。

まとめ

ターゲットを絞ることは、切り捨てではない。誰に届けるかを先に選ぶ段階を「ターゲティング」と呼び、届け先を一人に定めるほど言葉は具体的になり、よく似た誰かにも届いていく。一人に定めるのはその人の描き方であって、狙う層そのものを小さくすることではない。ただし絞るのは向ける相手であって、知ってもらう努力を減らすことではない。そしてペルソナは勘で選ぶものではなく、現場の声・データの裏づけ・チームの実感という三つの検証を経て、根拠を持って選ぶものだ。