Shiny Academy

観光マーケティング実践コース

~第3話 この島に来てほしい人は、誰だろう~

前回のあらすじ

西園寺の「『みんな』に届くメッセージは誰にも届かない」という提案に北村は強く反発したが、誰に届けるかを先に選ぶ段階=ターゲティングの説明と、神谷のまるやまマートでの実体験を経て、理屈では理解した。西園寺は「狙う層をどれくらいの広さにするか」と「その層をどれだけ具体的に思い描くか」は別の話で、これから決める『たった一人』は層を代表する一人を描くことだと整理した。さらに西園寺は、ペルソナを勘ではなく「現場の声から仮説を立てる」「複数の情報源で裏づけを取る」「チームの現場感覚と照らし合わせる」の3ステップで検証して選ぶことを示した。北村は「理屈はわかりました、ですがまだ怖いんですよ」と正直に語り、西園寺は「現場で直接受け取った記録はあるか」と次のステップを促した。

問い合わせの声が描く人物像

せとうちマーレブル事務所で、宮本がフィールドノートを開いて問い合わせデータを説明し、北村が前のめりで聞いている

西園寺の問いかけに、宮本がマスタードイエローのフィールドノート(現場で書き留める記録帳)を開いて手を挙げた。

宮本彩の表情アイコン
宮本
あの、実はお伝えしたいことがあるんです。先週、神戸にお住まいのお母さんから30分の電話がありました。4歳の息子さんを連れて、初めて香川に来たいって
宮本彩の表情アイコン
宮本
『フェリーで子どもがちゃんと寝られますか』『ベビーカーで回れるお店はありますか』『雨が降ったらどうしたらいいですか』——次から次へと、とても具体的な不安ばかりで

宮本が再現するそのやり取りには、抽象的な「お客様」ではない、生きた人間の声があった。電話の向こうにいるのは、子どもを連れて初めての旅をしたいと思っている一人のお母さんだ。一つひとつの質問が、ぼんやりとした「みんな」に具体的な輪郭を与えていた。

宮本彩の表情アイコン
宮本
最後にその方が『ここまで丁寧に教えていただけて安心しました。家族で一度行ってみます』とおっしゃったんです。実は、このような子連れの問い合わせが、先月だけで8件あるんです
北村裕の表情アイコン
北村
……そんな話があったんですか。私は活動報告の書類ばかり見ていて、電話の中身まで追えていませんでした

北村の表情が変わった。パンフレットの「観光客」ではなく、電話口で子どものことを心配する一人のお母さんの姿が、目の前に浮かんだからだ。

西園寺遥の表情アイコン
西園寺
宮本さん、それはとても貴重な情報ね。そのお一人の声が、実は何人もの家族の声を代表しているのかもしれないわ。前回お話しした検証プロセスの最初のステップ——『現場の声から仮説を立てる』、その材料がもう手元にそろっているのよ
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
ただ、一つだけ気をつけて。お問い合わせに答えるために教えていただいたお名前や連絡先は、カードに書き写さないの。うかがった目的以外には使えないから
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
カードには『阪神間在住・30代のご夫婦・未就学のお子さん1人』のように、その方が誰か特定できない条件だけを残しましょう。それでもペルソナとしては十分に働くわ
宮本彩の表情アイコン
宮本
わかりました。お名前と連絡先は書き写しません。条件だけを写して、カードの上ではこのご家族を『林田さん』と呼ぶことにしますね

AIで裏づけを取る

西園寺の言葉を受けて、北村が慎重に口を開いた。

北村裕の表情アイコン
北村
確かに、いい話です。ですが、一件の電話だけで『この家族がうちのお客さんだ』と決めてしまっていいものでしょうか。前回うかがった二番目——裏づけを取らないといけませんね
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
僕、AIで統計データを調べてみましょうか。まるやまマートでも、現場の感覚を数字で裏づけることが大事だと学びました
宮本彩の表情アイコン
宮本
AIって、正確な情報を出してくれるんですか?
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
いい質問ですね。AIは、もっともらしいけれど実在しない情報を作ってしまうことがあるんです。だから、『出典のURLも一緒に示してください』とプロンプトに入れるのが大事で。出典があれば、あとで自分の目で元の資料を確認できます

神谷は会議テーブルの上のノートPCを引き寄せ、AIに質問を打ち込んだ。

神谷悠馬の表情アイコン
神谷
まず一つ目。『香川県を訪れる県外観光客の出発地域の割合と、同行者の構成を教えてください。出典のURLも示してください』——と入れてみます

数秒後、AIの回答が画面に表示された。神谷が要点を読み上げた。

神谷悠馬の表情アイコン
神谷
香川県の観光客動態調査によると、県外観光客の出発地は近畿が2割以上、2人以上で旅行する人の同伴者は家族が6割近くを占めるそうです。出典は香川県の公式サイトで、URLも出ています
北村裕の表情アイコン
北村
……林田さんの話と、ぴったり一致しているじゃないですか
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
はい。つまり林田さんは一人の特例ではなく、大きなグループを代表している可能性が高いということです
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
もう一つ聞いてみます。『阪神間の30代子育て世帯が旅行先を探すとき、主に使うSNSや情報源は何ですか。出典も示してください』

再びAIの回答が返ってきた。

神谷悠馬の表情アイコン
神谷
総務省の情報通信白書と、その基になった情報通信メディア利用時間調査によると、30代はSNSの利用率が高いそうです
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
ただ、元の調査に当たってみると、測っているのは年代別のメディア利用時間と情報行動までで、『旅行情報をどこで探すか』の設問はありませんでした。ここから先はAIの補足なので、うちの記録で確かめないといけませんね
宮本彩の表情アイコン
宮本
それなら、うちの記録にあります。林田さんも『子連れ 香川 旅行』でInstagram検索して、うちを見つけたっておっしゃっていました
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
現場の声が仮説で、データが裏づけですね。二つのステップが重なりました。最後のステップ——チームの現場感覚と照らし合わせましょう。北村さん、長年この地域を見てこられて、家族連れの来訪者は実感としていかがですか
北村裕の表情アイコン
北村
……確かに、ここ数年は小さい子どもを連れた若い家族が増えてきたと感じていました。イベントに来てくれる家族の姿を、よく見かけるようになりましてね
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
現場の声、データの裏づけ、チームの実感——3つのステップがそろいましたね。この林田さんご家族を、ペルソナのベースにしましょう。ただし観光には、小売にはない軸があります。旅の動機、移動手段、滞在時間——お客様に生活圏を飛び出してもらう必要がありますから、考えることが少し増えますね
AIの回答に裏づけを取る4段階。AIに質問し、出典URLを確認し、元の資料を開き、一次情報と照合する。出典がない回答は採用しない。AIは調査の入口として使う

林田家のペルソナカード

西園寺の提案を受けて、宮本が電話で聞き取った林田さんご家族の情報と、AI検証で得られたデータを、ペルソナカード(具体的な人物設定をまとめた1枚のシート)に落とし込んでいった。名前、年齢、家族構成、居住地、移動手段、旅行パターン、予算、情報収集方法、求めるもの、不安と障壁——一つひとつの項目が埋まるたびに、電話口で聞いた林田さんの声が、一人の家族として形を成していった。

林田家のペルソナ図。神戸在住の夫35歳・妻33歳・息子4歳が深夜フェリーで1泊2日の香川旅行を計画。旅の目的、情報収集、重視すること、不安を整理し、おすすめに加えて不安を先回りして伝える方針を示す
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
不安や障壁も書いておきましょう。林田さんが電話で聞いてきた質問が、そのままこの家族の不安なの。子どもが船で寝られるか、現地での移動手段、雨の日の代替プラン、うどん店がお子さんに対応しているか。こういう不安をひとつずつ解消する情報が、この家族に届くコンテンツ(届けたい情報や読み物)になるわ
宮本彩の表情アイコン
宮本
そうか……私が林田さんに電話で聞かれたことは、全部この家族の不安だったんですね。電話で一つひとつ答えていたことが、そのまま伝えるべきことになるんですね

この家族のために作る

ペルソナカードが完成した。すべての項目が埋まった1枚を、北村は黙って見つめていた。壁に貼った香川の地図と、手元のカードを交互に見る。

さっきまで「一人に絞るなんて」と反発していた北村の目に、別の色が浮かんでいた。カードに書かれた「不安と障壁」の欄——子どもが船で寝られるか、雨の日はどうするか。宮本が電話で聞いた林田さんの声が、一つひとつそこに刻まれている。

北村裕の表情アイコン
北村
……この林田さんのお母さんは、30分も電話をかけてきたんですね
宮本彩の表情アイコン
宮本
はい。子どものことが心配で、でも本当に香川に来たくて。声を聞いていてわかりました
北村裕の表情アイコン
北村
30分も電話をかけてくる人は——本気なんですよ。この家族は、本気で来たいと思っているんです

しばらく間があった。北村は眼鏡を外して額を軽く押さえた。そしてゆっくりと、自分の言葉で語り始めた。

北村裕の表情アイコン
北村
さっき西園寺さんが言っていましたね。絞るほうが、かえって広く届くことがあると。正直、まだ完全には腑に落ちていないんです
北村裕の表情アイコン
北村
ですが、この林田さんの不安を一つ残らず解消できたら——同じ不安を抱えている他の家族にも、その答えは届くはずです。それはわかるんですよ

宮本がうなずきながら言った。

宮本彩の表情アイコン
宮本
北村さん、問い合わせに答えていて思うんです。林田さんが聞いてきたことは、他の方も同じように聞いてくるんです。『うちの子でも大丈夫ですか』って。だからこの家族の不安を解消できれば、ほかの家族の不安も解消できるはずです
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
宮本さん、まさにそこね。林田さんのために本気で作ったコンテンツは、林田さんに似た家族にも届くわ。一人のための最高が、結果的に多くの人に広がっていくのよ
北村裕の表情アイコン
北村
……わかりました。まずはこの林田さん一家のために、私たちにできる一番いいものを作りましょう

北村は「みんなに届けたい」という気持ちと、「一人に絞る」決断の間で、長い時間揺れていた。理論を聞き、神谷の実体験を聞き、それでもまだ怖かった。しかし、宮本が電話で聞いた林田さんの生の声——子どもを連れて初めての旅をしたいと願う一人のお母さんの姿を知り、AIで裏づけを取り、自分の実感とも重なったとき、「この家族のために」という言葉が自然と出た。専門用語は一つも使っていない。でもその言葉に、ペルソナ設計の本質が宿っていた。


📌 覚えるポイント

  • 現場の一次データ(電話・メール・対面)がペルソナの仮説の出発点になる。高度な分析ではなく、日々の実務で受けた一人の声がもっとも説得力のある人物像を描き出す。ただし、問い合わせで教わった氏名・連絡先をそのままペルソナに書き写してはいけない。お客様に答えるために預かった情報を別の目的に使うことはできないので、個人が特定できない属性に置き換えて使う
  • AIで統計データの裏づけを取るときは「出典のURLも示してください」とプロンプトに入れる。AIは実在しない情報を生成することがあるため、出典を確認することで自分の目で真偽を検証できる
  • 検証プロセスの3ステップ(現場の声→データの裏づけ→チームの実感)が揃ったとき、根拠を持ってペルソナを選べる
  • 観光のペルソナには小売にはない軸がある。旅の動機、移動手段、滞在パターン、不安と障壁——お客様に生活圏を離れて来てもらうからこそ、考えるべきことが増える
  • ペルソナカードは、お客様の不安をそのまま解消すべきコンテンツの設計図になる。電話で聞かれた質問が、届けるべき情報そのものだ

📖 覚える用語

ペルソナ(観光版)
第2話で学んだペルソナに、観光固有の軸を足したもの。ターゲット顧客を具体的な1人の人物像として描き、現場のデータや実在のお客様の声をもとに、すべての判断基準となる理想の人物像にする。観光では旅行パターン・移動手段・不安と障壁など、生活圏を離れてもらうための軸が加わる。
ペルソナカード
ペルソナの具体的な人物設定を1枚のシートにまとめたもの。名前、年齢、家族構成、居住地、旅行パターン、情報収集方法、求めるもの、不安と障壁などの項目を整理し、チーム全員が同じ人物像を共有するための道具。
一次データと二次データ
一次データは自分たちが直接集めた情報(電話での問い合わせ、対面でのヒアリング、アンケートなど)。二次データは他者が調査・集計した情報(政府統計、業界レポート、調査機関のデータなど)。ペルソナの検証では両方を突き合わせることで信頼性が高まる。
📝 神谷の北村さんへの報告メモ
林田家ペルソナの概要
先月8件あった子連れの問い合わせに共通する条件から組み立てた架空の家族像で、『林田家』は仮の名前。氏名・連絡先は転記せず、阪神間在住・夫30代・妻30代・未就学児1人という属性だけを使った。ジャンボフェリー深夜便で朝着、1泊2日、予算は家族3人で約5万円。Instagramで発見しGoogle Mapsで確認。
検証プロセスの実践
3ステップは今回限りの作業ではなく、次のペルソナを立てるときにも再利用できる手順として残す。一次データは宮本のフィールドノートに残る問い合わせの記録、二次データは公的統計の出典URL、三つ目は関係者へのヒアリングで代替可能。ただし今回の一次データは電話で問い合わせをくれた層に限られ、検討したが来なかった家族の声は含まれていない。この偏りは現地でのアンケートなどで後日補う必要がある。
AI活用のポイント
今回の分担は、統計を「探す」ところまでをAIに任せ、「信じる」判断は原典で行うというもの。次回以降の運用ルールとして2点を残したい。①出典URLが示されない回答は根拠に採用しない。②省庁・県など公的機関の資料を民間調査より優先する。所要時間は質問2件で約10分、原典の確認まで含めても30分程度で、調査を外部に依頼するより手早く済む。

まとめ

現場で受けた一本の電話が、ペルソナの仮説を描き出した。AIで統計の裏づけを取り、チームの実感と照らし合わせたとき、「この家族のために作ろう」という決断が生まれた。検証プロセスの三つのステップが揃ったからこそ、勘ではなく根拠を持ってペルソナを選べる。