Shiny Academy

観光マーケティング実践コース

~第5話 全部やりたい、でも1つに絞る~

前回のあらすじ

西園寺に促されて神谷がホワイトボードに描いたカスタマージャーニー(お客様が知ってから来てくれるまでの道のり)で、せとうちマーレブルの持ち場が見えてきた。「知る」と「惹かれる」の最初の2ステップに集中し、小冊子で知ってもらい、動画で惹きつける——プロジェクトの設計図ができた。

全部紹介したい

カスタマージャーニーが固まった翌朝。せとうちマーレブルの事務所には、いつもの顔ぶれが揃っていた。ノートPCの画面には、オンラインで参加する西園寺の姿がある。今日の議題は、設計図に載せる「紹介する場所」を決めることだ。

せとうちマーレブル事務所で、北村が壁の観光マップを指しながら香川の名所を語っている

北村が壁に貼ったA3サイズの香川の観光マップの前に立ち、指で瀬戸内海の島々をたどり始めた。

北村裕の表情アイコン
北村
小豆島のオリーブ公園はね、初めて行ったとき朝日でオリーブ畑が金色に光ってね……あの景色は30年以上経った今でも忘れられないんですよ

北村の指が地図の上を西へ滑る。瀬戸内海に浮かぶ島々を、ひとつずつ指差しながら語り続けた。

北村裕の表情アイコン
北村
直島のアートは、若い人たちが夢中になるんです。島じゅうに作品が点在していてね、歩いているだけで楽しくなる。初めて案内したお客さんが『こんな島があったんですね』って目を丸くしてくれてねえ
北村裕の表情アイコン
北村
父母ヶ浜の夕日も見てほしい。干潮と無風が重なった日の夕方には、浜辺がまるで鏡みたいに空を映すんですよ。カメラを構えた観光客が、息を呑んで立ち尽くすあの瞬間——何度見ても胸が熱くなります

ひとつ語るたびに北村は前のめりになり、声に熱が宿る。北村が語る名所は、旅行ガイドの説明文ではなかった。「初めて行ったとき」「案内したお客さんが」——すべてが自身の体験として語られている。

北村裕の表情アイコン
北村
栗林公園の庭園は、海外のガイドブックで最高の評価をもらっているんです。紫雲山を借景にした池の回りを歩くと、一歩ごとに景色が変わる。どれも素晴らしいんですよ。……全部紹介したいんです
宮本彩の表情アイコン
宮本
わかります。それぞれ違う魅力がありますよね。私も北村さんと一緒に回るたびに、この場所のここがいい、あの場所のあそこがいいって思うんです

宮本の言葉に、北村は嬉しそうに目を細めた。若い世代が同じ思いでいてくれる。地図をなぞる指先に力が入る。小豆島も、直島も、父母ヶ浜も、栗林公園も——どれも手放したくない。その気持ちが、事務所の空気を温かく満たしていた。

30年以上この土地を見てきた北村の愛着が、言葉のひとつひとつからあふれ出していた。どの名所にも、案内した観光客の笑顔や、季節ごとに変わる風景の記憶がある。どれかを外すというのは、大切な宝物を箱にしまい込むようなものだった。

まず小さく始めよう

神谷は、北村の言葉を最後まで聞いてから、静かに口を開いた。

全部を一度に始めて未完になる場合と、1ルートに絞って成功を確認してから広げる場合の比較図
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
北村さん、お気持ちはすごくわかります。でも、僕がまるやまマートにいたとき、似たことがあったんです
北村裕の表情アイコン
北村
似たこと? どういうことですか、神谷くん
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
新しい仕組みを取り入れるとき、思いついた課題を全部いっぺんに直そうとして、どこから手をつけるか分からなくなったことがありました
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
そのとき教わったのが『まず小さく始めて、うまくいったら広げる』ということでした。最初は時短食品というひとつのカテゴリだけで仕組みを試して、そこで手応えをつかんでから冷凍食品、お弁当用品へと広げていった。全部一斉にやるよりも、結果的にずっと早く全体に広がったんです

スモールスタート(まず小さく始めて、うまくいったら広げるやり方)。神谷がまるやまマートで身をもって学んだ考え方だった。大きく始めるのではなく、最小限の規模で試して手応えを確かめてから次に進む。

神谷悠馬の表情アイコン
神谷
まず1ルートだけ作って、反応を見てから広げませんか
北村裕の表情アイコン
北村
でも……1つだけでは、香川の魅力が伝わらないのではないですか。小豆島も直島も父母ヶ浜も、どれもこの地域の宝なんですよ

北村の声には切実さがあった。それは「わがまま」ではない。この土地の魅力を知り尽くした人間だからこその、正直な叫びだ。

神谷悠馬の表情アイコン
神谷
1つに絞るのは、ほかを捨てることじゃないんです。順番の問題です。最初の1本に全力を注いで、それがうまくいけば、次のルートに進む根拠になります
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
北村さん、神谷くんの言う通りですね。1ルートが成功すれば、それが2ルート目の説得材料になるんです。「この1本でこれだけの成果が出ました」と示せれば、次に手を広げるときにみんなが納得してくれるでしょう
北村裕の表情アイコン
北村
全力を……そうか、全力を1つに注げるなら、たしかに違うものが作れるかもしれないな

北村は腕を組み、しばらく黙って壁の観光マップを見つめていた。指先が、無意識に地図上の屋島の位置をなぞっている。

問い合わせの記録が教えてくれること

沈黙を破ったのは宮本だった。マスタードイエローのフィールドノートを開き、スマートフォンの画面をテーブルの上に置いた。

せとうちマーレブル事務所で、宮本がフィールドノートとスマートフォンを見せながら問い合わせの傾向を北村と神谷に説明している
宮本彩の表情アイコン
宮本
北村さん、ちょっと見てもらえますか。最近の問い合わせの記録を整理してみたんです。電話でもInstagramのDM(ダイレクトメッセージ)でも、神戸や大阪から来る家族連れのお客様が圧倒的に多くて
北村裕の表情アイコン
北村
家族連れですか。前に宮本さんが話してくれたとおりですね。……こうして数として並べて見せてもらうと、また印象が違いますねえ
宮本彩の表情アイコン
宮本
はい。「4歳の子でもうどん踏み体験できますか」とか、「ベビーカーで屋島に行けますか」とか。それも一件や二件じゃないんです。前に神谷さんが調べてくださった数字、2人以上で旅行する人の同伴者で家族が6割近くって出てましたよね。うちに届く問い合わせも、まさにそんな感じなんです
北村裕の表情アイコン
北村
「4歳の子がうどん踏みできますか」か……そういえば、電話でそう聞かれたことがあるな。あのときはうまく答えられなかった

宮本はフィールドノートのページをめくった。蛍光ペンで色分けされた問い合わせの一覧が並んでいる。

宮本彩の表情アイコン
宮本
しかも、問い合わせてくれた方の多くが、そのあと返事が途切れているんです。興味は持ってくれている。でも、「じゃあ行こう」の一押しが足りていない。その一押しを作るのが、私たちの仕事だと思います
宮本彩の表情アイコン
宮本
ジャンボフェリーの深夜便で神戸を出て、朝に高松東港に着く。屋島を歩いて、うどんの体験をして、1泊2日で帰る。これなら前回決めたペルソナ(たった一人の理想のお客様像)の林田家——阪神間在住の30代夫婦と未就学のお子さん——にもぴったり合います
北村裕の表情アイコン
北村
屋島とうどん、か……
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
宮本さんが整理してくれた記録は、とても大事な判断材料ですね。感覚ではなく、実際に届いた声に基づいているんです。北村さん、ペルソナの家族像と問い合わせの傾向が、同じ方向を指していますよ。この組み合わせなら、最初の1ルートとして一番手応えがあるんじゃないでしょうか
北村裕の表情アイコン
北村
うちのスタッフは宮本さんしかいないんですよ。それで小冊子も動画も全部の名所をカバーするなんて無理でしょう
宮本彩の表情アイコン
宮本
だからこそ、1つのルートに絞って、いちばんいいものを作りたいんです

北村は宮本のフィールドノートを手に取り、ページを一枚ずつめくった。一つひとつの問い合わせの背後に、香川に来たいと思っている家族の姿が浮かんでいるようだった。

北村の決断

北村は椅子から立ち上がり、壁の観光マップに歩み寄った。指先で屋島の位置をなぞり、しばらく黙ったまま地図を見つめている。事務所の窓から差し込む初夏の光が、マップの上に柔らかな影を落としていた。

実際の香川県の位置関係に沿って候補4ルートと、神戸から高松東港、屋島、高松市内のうどん体験を回る選定ルートを比較した図

小豆島も、直島も、父母ヶ浜も——どれも大切な場所だ。けれど、全部を一度に紹介しようとすれば、どの名所の魅力も薄まってしまう。北村は自分にそう言い聞かせるように、ゆっくりと息を吐いた。

事務所の時計の秒針の音だけが聞こえる。宮本も神谷も、北村の答えを静かに待った。この決断は、北村自身がたどり着かなければ意味がない。

北村裕の表情アイコン
北村
……小豆島も、直島も、父母ヶ浜も、いつかちゃんと紹介したい。でもな、神谷くんの言う通りだ。全部を一度にやったら、どれも中途半端になる

北村が振り返った。眼鏡の奥の目に、葛藤を乗り越えた静かな決意が宿っていた。

北村裕の表情アイコン
北村
……わかりました。まず屋島とうどんで、一番いいものを作りましょう

宮本が小さく拳を握り、「やった」とつぶやいた。神谷も、ほっとした表情で頷いた。「全部やりたい」から「まず1つ」へ——30年分の愛着を一度脇に置いて、最初の1本に懸けるという北村の決断が、これから始まるプロジェクトの土台になる。北村の決断が、このプロジェクトを前に進める一番の力だ。それを一番近くで見てきた宮本が、誰よりもわかっていた。

明日は現場へ

ルートが決まった直後、宮本が勢いよく立ち上がった。

宮本彩の表情アイコン
宮本
よし、決まりましたね! じゃあ明日は実際に屋島を歩いてみましょう——林田家のお母さんの目で、この道を見てみたいんです
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
そうですね。調べただけの情報で書くと、現地と食い違うことがあります。まず自分の足で確かめてからにしましょう
宮本彩の表情アイコン
宮本
ペルソナの林田家のお母さんの気持ちになって歩いてみたいんです。ベビーカーで通れる道はどこか、うどん体験は何歳から楽しめるのか。お昼のうどん屋さんの混み具合も気になります。現場に行かないとわからないことばかりですから
北村裕の表情アイコン
北村
頼んだよ、神谷くん、宮本さん。……一番いいものを、作ろう

窓の外では、初夏の風が街路樹を揺らしている。この小さな事務所で決まった1ルートが、これからどんな形になっていくのか。まだ誰にもわからない。ただ、ひとつだけ確かなことがある——始まった、ということだ。


📌 覚えるポイント

  • 全部をいっぺんにやろうとすると、人も時間も予算も分散して、どの取り組みも中途半端になる。まず1つに絞って成功の手応えを確かめ、その実績を根拠に次へ進む——スモールスタートはあきらめではなく順番の設計
  • 優先順位は「自分が一番良いと思うもの」ではなく、「ペルソナに合い、問い合わせの傾向が裏づけるもの」で決める。実際に届いた声の記録に基づく判断なら、チーム全員が納得できる出発点になる
  • 小さな実績は、次の提案の説得材料になる。「前回はこの組み合わせでこれだけの反応がありました」と具体的に示せれば、2本目・3本目へ広げるときの根拠になる
  • 絞ることは捨てることではない。ほかの観光資源の魅力を否定しているのではなく、順番を決めているだけ。最初の1本が成功すれば、次へ手を広げるための実績と自信が手に入る
  • 「全部紹介したい」という気持ちは正しく、それ自体が推進力になる。ただし限られた人手と予算で最大の成果を出すには、まず1つに全力を注ぎ、残りは次の機会に回す覚悟がいる
  • 日常の電話やメッセージの記録には、お客様の属性・関心・行動パターンの手がかりが眠っている。改めて整理すると、ペルソナの仮説を裏づける証拠が見つかり、次にやるべきことの根拠になる

📖 覚える用語

スモールスタート
最小限の規模で始めて成果を確認し、段階的に拡大する手法。全部を一度にやるとどれも中途半端になるため、まず1つに絞って成功を作り、それを次の一手の根拠にする。
📝 神谷の北村さんへの報告メモ
スモールスタートの方針で1ルート決定
最初の1ルートを「ジャンボフェリー深夜便で神戸発→朝に高松東港着→屋島散策→うどん体験」の1泊2日コースに決定。ほかの名所は次の機会に回す。
ルート選定の根拠
ペルソナ「林田家」(阪神間在住・30代夫婦・未就学児1人)と宮本の問い合わせ記録の両方が、近畿圏からの家族連れ+屋島+うどんの組み合わせを一貫して指し示している。県の調査でも2人以上で旅行する人の同伴者のうち6割近くが家族。
次のアクション
翌日のフィールドワークで屋島を実地踏査。ペルソナの視点で現地を歩き、ベビーカーで通れる道・うどん体験の対象年齢・所要時間を自分の目で確認する。

まとめ

「全部やりたい」を「まず1つ」に変える判断は、あきらめではない。限られた力で最大の成果を出すための戦略だ。ペルソナと現場の声が同じ方向を指すとき、最初の1ルートは自然と決まる。その小さな成功が、次の扉を開く鍵になる。