Shiny Academy

観光マーケティング実践コース

~第7話 三つの顔を持つ島 ── 女木島取材~

前回のあらすじ

屋島エリアをペルソナ(たった一人の理想のお客様像)の林田家の目線で歩き、ベビーカーの動線や段差を自分の足で確認した。さぬき体験工房では藤原の音楽付きうどん踏み体験に出会い、「うどんダンダンダンス」と仮称をつけた。AIに問い合わせたモデルコースには、有料の駐車場を「無料」とし、階段のある展望台ルートを「全区間バリアフリー」とする誤りが混じっており、一次情報(自分の目で確かめた事実)でしか見抜けない誤りが混じることを体感した。

比較取材の提案

屋島取材の翌日。せとうちマーレブルの事務所で、宮本が昨日のフィールドノートを広げながら提案した。

宮本彩の表情アイコン
宮本
神谷さん、女木島って行ったことありますか? 高松港からフェリーで20分の島なんですけど
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
いえ、ないです。……でも、前回1ルートに絞り込んだばかりですよね
宮本彩の表情アイコン
宮本
そうなんですけど……あの島、鬼ヶ島って呼ばれていて、桃太郎伝説の舞台なんです。雰囲気がすごく独特で、一度見てほしいなと思って。うまく言えないんですけど、屋島とは全然違うものがあるんですよ
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
……なるほど。比較対象を持っておくと、屋島の強みが言語化しやすくなりますね。まるやまマートでも、競合を調べたことで自社の立ち位置がはっきりした経験があるので。行きましょう
宮本彩の表情アイコン
宮本
ほんとですか! ちなみに桃太郎と言えば岡山のイメージが強いと思うんですけど、実は香川にも伝承があるんです。「うちが本家」論争、面白いですよね
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
それは面白い。本家論争そのものがコンテンツ(届けたい情報や体験のまとまり)になりそうですね

宮本が昨日撮った写真をフィールドノートに貼りながら、女木島の見どころを指で差していく。地元を知り尽くした宮本の直感と、神谷のマーケティング経験が噛み合った。比較対象を持てば、屋島の強みが浮かび上がる——二人の視点が重なった瞬間だった。

高松港から女木島へ

高松港からフェリーに乗った。港を離れると、初夏の日差しを受けた穏やかな青緑の海面が広がった。右舷の遠くに屋島の台地が霞んで見える。振り返ると、高松の市街地がゆっくり小さくなっていく。

20分の船旅だ。昨日歩いた屋島が、海の向こうから見ると違う形に見える。上からではなく、横から見る屋島。宮本が指を差した。

宮本彩の表情アイコン
宮本
ほら、屋島の台地の形がきれいに見えますよね。お客様がフェリーから降りて最初に目にする景色がこれなんです

フェリーが女木島の港に着いた。高い自然石積みの壁と暗赤褐色の木質ルーバーでできた「鬼ヶ島おにの館」の上に、空へ弧を描く細い赤色の鉄骨が伸びている。防波堤の上には白い風見鶏風のオブジェが一列に並んでいた。小さな港に降り立った瞬間から、この島には独特の空気が漂っている。

宮本が防波堤に沿って歩きながら、指でオブジェの列を差した。白い鳥のような形が一定間隔で並んでいる。

宮本彩の表情アイコン
宮本
これ、本物のカモメじゃないんです。風が吹くと一斉に向きを変える、カモメをかたどったアート作品なんですよ。島全体がちょっとしたギャラリーみたいになっていて
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
港からすでに物語が始まっているんですね

昔話とポップカルチャー(映画・まんが・アニメなど、広く大衆に親しまれている文化)が重なる洞窟

港からバスで山腹の鬼ヶ島大洞窟へ向かった。太い注連縄と白い紙垂の下に、石段で下りていく低い入口が開いている。周囲にシダ類が茂り、入口から冷たい空気が流れ出していた。

鬼ヶ島大洞窟の内部。小型の暖色灯に照らされた通路を、神谷と宮本が歩いている

洞窟内に入ると、暖色のLED照明が岩肌をオレンジに照らし、通路の奥に赤い鬼の像のシルエットが浮かび上がっていた。外の暑さが届かない、ひんやりした空気が肌に触れる。奥行約400mの通路を、二人で歩き始めた。

宮本彩の表情アイコン
宮本
この洞窟、大正時代に地元の郷土史家が見つけて「ここが桃太郎伝説の鬼ヶ島だ」と唱えたのが始まりなんです。昭和の初めに公開されて、それからずっと島の顔になっていて。展示も昔話をモチーフにしていて、お年寄りから子どもまで楽しめます
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
確かに、昔話の世界に入り込んだような感覚がありますね。歴史好きな人にとっては、たまらない場所でしょう

洞窟の奥の広間を抜けて、再び狭い通路に戻ったとき、宮本が声をひそめた。

宮本彩の表情アイコン
宮本
そういえば最近、この洞窟に若い人が増えてるんですよ。SNSに写真をたくさん投稿していて。正直、なんでだろうって不思議だったんですけど……
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
それ、アニメの聖地巡礼かもしれません。この雰囲気、ファンタジー系の作品の世界観と重なりますよね。ファンは作品の舞台になった場所を巡って、SNSに投稿するんです
宮本彩の表情アイコン
宮本
あ……でも、それは確かめられますか。前に神谷さんが言っていた、推測のまま書かないというやつですよね
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神谷
そのとおりです。あとでこの洞窟のハッシュタグを検索して、投稿にどんな言葉が添えられているか見てみましょう。推測のままでは、企画の土台にはできませんから

神谷はスマートフォンの電波を確認した。圏外だった。洞窟の中にいる限り、ネットで調べることもできない。目の前にあるのは岩肌と照明と鬼の像だけだ。

神谷悠馬の表情アイコン
神谷
歴史ファンは伝説の洞窟として来て、アニメファンは聖地として来る。同じ入口をくぐっているのに、見えている景色が全然違うんですよ
宮本彩の表情アイコン
宮本
言われてみると……確かに、来るお客様の雰囲気が全然違うなって、ずっと感じてたんです。年配の歴史好きの方と、カメラを構えた若い方と

洞窟の出口に近づくと、外の光が通路の先に白く差し込んでいた。約400mの暗い通路を歩いている間に、二つの全く異なる客層がこの場所を訪れていることが見えてきた。

三つのメモ

鷲ヶ峰展望台で、神谷がスマートフォンにメモを打っている。背景に瀬戸内海のパノラマと屋島のシルエット

洞窟を出て、鷲ヶ峰の展望台へ登った。標高約187m。土と小石と風化したコンクリートが混じる素朴な山頂の園地で、低い柵の際に立つと、木々の切れ目から瀬戸内海のパノラマが広がった。南に高松市街、南東に屋島の台地、北に男木島、北東に小豆島の島影。どの方角を向いても、ティールからコバルトブルーに変わる穏やかな海面と島々が見える。風が強く、初夏の潮の香りが吹き上げてきた。

神谷は足を止めた。柵に肘をつき、しばらく黙って海を眺めた。それからスマートフォンを取り出して、三つのメモを打ち始めた。

一つ目、「昔話(鬼ヶ島伝説)」。二つ目、「現代のポップカルチャー(アニメ聖地巡礼)」。三つ目、「自然景観(瀬戸内海パノラマ)」。

神谷悠馬の表情アイコン
神谷
宮本さん、この島には三つの全然違うコンテンツが重なっていませんか
宮本彩の表情アイコン
宮本
三つ……?
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
鬼ヶ島伝説の歴史と、アニメの聖地巡礼と、この展望台の絶景。歴史が好きな人には伝説の島、アニメファンには聖地、自然が好きな人にはこのパノラマ。同じ島なのに、来る人によって受け取る価値が全然違うんです
宮本彩の表情アイコン
宮本
あ……確かに。同じ女木島なのに、見る人が変わると価値が変わるんですね。気づかなかったです

宮本がフィールドノートにメモを取り始めた。神谷の三つのメモと同じ内容を、自分の言葉で書き直している。二人の視点が、同じ結論に達している。

切り口の整理

船に戻って電波が入ると、神谷は洞窟名のハッシュタグを検索した。作品名を添えた投稿がいくつも並んでいる。推測は、確かめられた事実に変わった。

帰りのフェリーの船内で、西園寺にオンラインで報告した。神谷が三つのメモを見せると、画面の向こうの西園寺がゆっくり頷いた。

神谷悠馬の表情アイコン
神谷
同じ島なのに、歴史ファンには伝説の洞窟、アニメファンには聖地、自然派にはこのパノラマ。来る人の関心によって、見えている価値が全然違うんです
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
いい観察ね。切り分けているのは場所の特徴ではなく、来る人の関心の側なの。同じ場所でも、見る人によって別の価値が見えるでしょう
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
それに、アニメの聖地として人が来る現象には、もう名前があるの。コンテンツツーリズム(作品をきっかけに人が旅に出ること)——作品を通して生まれた物語性を、観光の資源として使う考え方ね
宮本彩の表情アイコン
宮本
じゃあ、若い人が増えていたのは……ちゃんと名前のある現象だったんですね
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
そうよ。すでに名前のある現象は、その名前で呼ぶ。そのほうが外の人にも通じるでしょう
女木島の共通素材から昔話、ポップカルチャー、自然景観の3切り口を作り、届ける相手と記事の問いを示す図

西園寺が話をペルソナに向けた。

西園寺遥の表情アイコン
西園寺
ペルソナの林田家——阪神間在住で未就学のお子さんがいる家族連れだったわね。林田家は自然と体験の切り口に惹かれるはずよ
宮本彩の表情アイコン
宮本
屋島の歴史なら、北村さんが強いんです。源平合戦の話になると止まらなくて、聞いている子どもが前のめりになるくらいで
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
今の話だと、北村さんの語りが歴史の切り口を加えれば、子どもにも「冒険」として響くかもしれないわね
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
ペルソナの属性に合わせて、前面に出す切り口の優先順位を決めるということですね
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
そうね。三つを均等に扱う必要はないわ。どれが一番刺さるかを見極めて、そこを入口にするの。それに、三つという数字に意味はないの。女木島がたまたま三つだっただけよ
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
林田家なら、まず自然と体験の切り口で「楽しそう」と感じてもらい、歴史は現地での体験として加える——そういう設計ですね
宮本彩の表情アイコン
宮本
そうなんです。あの話し方なら、子どもたちも冒険みたいに感じると思います
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
いい組み合わせね。神谷くんの設計力と宮本さんの現場の目が噛み合ってきたわね

フェリーの窓の外で、高松港が近づいてきた。女木島が遠ざかるにつれて、あの島全体がひとつの教材のように見えてきた。歴史、ポップカルチャー、自然——同じ島が、来る人によって三つの違う顔を見せる場所。

屋島にも、三つある

神谷悠馬の表情アイコン
神谷
屋島にもありますよね。源平合戦の歴史と、瀬戸内海の自然と……

神谷が言いかけたとき、宮本のスマートフォンが鳴った。事務所にいる北村からだった。

宮本彩の表情アイコン
宮本
神谷さん、北村さんから電話です。スピーカーにして、西園寺さんにも聞こえるようにしますね

宮本がスピーカーフォンに切り替えた。オンラインでつながったままの画面の向こうの西園寺にも、北村の声が届いている。

北村が電話越しに、興奮気味に声を上げた。

北村裕の表情アイコン
北村
神谷くん、宮本さんから途中報告のメッセージを読みましたよ。女木島の三つの……なんと言いましたかね、あの見え方の話は
神谷悠馬の表情アイコン
神谷
はい、歴史と、ポップカルチャーと、自然景観です。同じ島が、来る人によって三つの違う顔を見せるんです
北村裕の表情アイコン
北村
屋島だって負けていませんよ。歴史に、自然に、あの踊るうどん踏みの体験——屋島にも三つあるんですよ

結局、この日は誰も、まとめて呼ぶ言葉を使わなかった。北村は具体的なものを自分の言葉で列挙しただけだ。源平合戦の歴史、瀬戸内海の自然、藤原の音楽付きうどん踏みの体験——前回1ルートに絞り込んだ屋島×うどんの中にも、三つの切り口がある。名前がなくても、話は通じていた。

屋島とうどんの1ルートを歴史、自然、体験の3切り口で深掘りし、林田家には体験を強調する図
西園寺遥の表情アイコン
西園寺
ええ、北村さんが今おっしゃったとおりですね。屋島にも、ちゃんと三つ揃っています。広げなくても、深さで勝負できるんです。今回の取材の一番大きな収穫は、そこでしょうね
北村裕の表情アイコン
北村
ええ。あの藤原のうどん踏みは、長年この辺りを見てきた私でも驚きましたからね

電話越しの北村の声に、いつもの力強さが戻っていた。前回の絞り込みで「全部紹介したい」と葛藤した北村が、今は1ルートの深さに自信を持ち始めている。

フェリーが高松港に着いた。タラップを降りると、初夏の陽が西に傾き始めていた。女木島の形が、港の向こうに小さく見える。今日一日で歩いた場所はたった一つの島だったが、見つけたものは屋島に持ち帰れる。


📌 覚えるポイント

  • 1つの観光対象は、来る人の関心によって別々の価値を持つ。歴史好き・アニメファン・自然派——見る人が変われば、同じ場所から受け取るものが変わる。切り分けるのは場所の特徴ではなく、来る人の側。切り口の数に決まりはなく、女木島がたまたま三つだっただけ
  • 作品をきっかけに人が旅に出る動きには、すでにコンテンツツーリズムという名前がある。名前のある現象に自分たちで新しい言葉を作らず、通じる呼び方に乗せたほうが、外の相手と話が早い
  • 本命のルートだけを見ていると、その強みには気づけない。別のエリアを自分の足で歩いて比べると、本命の独自性と弱点の両方が浮かび上がる。比較対象を持つこと自体が、企画の精度を上げる手段になる
  • ルートを増やさなくても、前面に出す切り口を選び直せば深さで勝負できる。屋島×うどんの1ルートにも「源平合戦の歴史」「瀬戸内海の自然」「踊るうどん踏みの体験」があり、林田家なら自然と体験が入口になる

📖 覚える用語

コンテンツツーリズム
作品をきっかけに人が旅に出ること。映画・ドラマ・小説・まんが・アニメなどの作品を通して生まれた物語性を、観光の資源として活用する考え方を指す。作品の舞台を訪ねる「聖地巡礼」もこれにあたる。すでに名前のある現象は、自分たちで言葉を作らずにその名前で呼ぶ。
📝 神谷の北村さんへの報告メモ
女木島の比較取材を完了
高松港からの往復のフェリーを挟むと、洞窟と展望台を回るだけで丸一日かかった。比べてみて分かったのは、女木島は船に乗る分だけ移動が一日仕事になるということ。未就学のお子さんがいる林田家には、陸路でそのまま向かえる屋島のほうが動きやすい。屋島の強みが「近さ」でもあると言い切れるようになったのは、別のエリアを自分の足で見てきたからだった。
三つの切り口の使い方を整理
「別のものを3つ用意する」話ではなく、同じ場所の見せ方を3通り持つという話。切り分けは、場所の特徴ではなく来る人の関心のほうで切る。この基準さえ押さえておけば、1回の取材で撮った写真も聞いた話も3通りに使い回せるので、素材づくりの手間はむしろ減る。
屋島への応用
三つの切り口のうち、いま手元に素材が揃っているのは歴史(北村さんの源平の語り)と体験(藤原さんのうどん踏み)の二つ。自然は、前回の屋島取材が日中だったため、夕方の景色をまだ押さえられていない。次は夕方の時間帯に一度歩いたうえで、三つをどの順番で見せるかまで決めたモデルコースの素案を作る。

まとめ

1つの観光対象は、見る人によって異なる価値を持つ。歴史、ポップカルチャー、自然景観——切り分けるのは場所ではなく、来る人の関心の側だ。ターゲットごとに切り口を変えれば、1つの資産から複数の企画が生まれる。広げるのではなく、深さで勝負する。